019-涙。

どこにそんな力が残ってたかと思うくらいの勢いで、
私は立ち上がって夫につかみかかっていった。

左手の拳で夫の背中や脇腹を殴る。
右も握りしめて顎を叩く。
体格差もなにも気にならなかった。

眉を吊り上げ、目を見開いて。
口を開いて、歯を剥き出して。
肩、腕、背中、憎しみの力を込めて噛みまくる。
気がふれたケモノのように。

止められなかった。

母は突然の私の様子に恐れをなして、娘を起こして出ていったらしい。

その気配を感じて、私は誰はばかることなく暴れた。
雄叫びあげながら、泣きながら、私は夫を攻撃し続けた。

夫は何も言わず、されるがままになっていた。
そして、私の両手首をつかんで抱き寄せる。
暴れる動物をなだめるように、背中をさすりながらこう言う。

「わかった、ホテル行こう」
「もう少し、あと少しだから」

でも、その言葉は火に油をそそぐ。

「それが出来るなら、なんでもっと早くに言ってくれなかったの?」

「なぜ、こんなになるまで言ってくれなかったの?」

「私はさんざん言ったよね、18年も」

「抱いて、せめて触れてって」

「大好きで、大好きでたまらない貴方と触れ合いたくて」

「でも我慢して」

「私の身体が欠陥品だからしてもらえないんだ、と言い聞かせて」

「それこそ何百回も自分に言い聞かせて、納得させて」

「そしたら、そしたらこんなになっちゃったじゃない?」

顔中ぐしゃぐしゃになりながら、泣き続けた。

けど、言いたいことをマシンガンのように吐いたら、体中の力が少し抜けた。

18年言えなかった思いを全部吐き出して、楽にもなっていた。

このまま抱いて欲しい。
一緒、そんな気持ちも頭をかすめた。

でも、こんなぐちゃぐちゃな顔じゃあ嫌だ。
もっと綺麗にお化粧もして。
新しいワンピースを着て、待ち合わせして。

やっと世界中で一番好きな人と抱き合えるのに。

頭が混乱しすぎて、何がしたいのかすら、良くわからなくなっていた。

夫のTシャツを脱がせた。
私も脱ぎすてた。

両手を夫の身体にまわして、顔を胸に埋めた。
上半身だけ裸のまんま、夫に抱き着いて私はいつまでも泣き続けた。
夫の匂いが、夫の体温が心地好かった。

こんなに泣いたのは、いくつの時以来だろう。

顔が変わるほど泣きつかれて、私はやっと眠りについた。

夜は気まずい夕飯の時間だった。

母は腫れ物に触るかのように黙ってるし。
普段、無口な娘はやけに饒舌だし。
夫は、そんな空気をただそうといつになく気を使ってるし。

私が家族のバランス壊したんだなぁ。
昨日まで、なんとかやってきたつもりだったのになぁ。

でも、どこか自暴自棄な気持ちもあった。
せいせいしていた。
母はこの家の王様だったから。
遠慮とか、気遣いとか、おおよそ無縁な人だったから。

夫とも正面きって向き合っていなかったかもしれない。
出会って25年もたつ夫婦なのに、遠慮があった。
私の母と同居してもらってるから?
深夜の仕事が大変そうだったから?

翌日、大丈夫そうなので仕事に行ってみた。
でも、昨日と全く同じ状態で、いくらもしないうちに立てなくなった。

二日も続けて早退なんて、今までしたことない。
情けないし、何より皆に申し訳ない。

昨日同様、迎えに来てもらうよう電話を入れる。

車の中で母に切り出す。
言葉を選んで。

「更年期かもしれないし、自律神経かもしれない」
「ただ、少し前から家に近づくと頭がモヤモヤする」
「悪いけど、今日もちょっとゆっくり寝たいんだ」

さすがにその日は、母は私を送ると、
その足でどこかに出かけてくれた。

お昼過ぎ、夫がいる。
顔を見ただけで気が抜けて、涙が出てくる。

「私はいったいどうしちゃったんだろ?」
「今日も早退して、またみんなに迷惑かけちゃった」
「私が家族をぶっこわしたかもしれない」
「みんな、私のせいだ」

昨日はせいせいしていたのに、今日はただただ自分を責める。

夫が私の目を見て言う。
「お前はなんにも悪くない」

また涙が出てきた。
ハラハラ、という言葉がピッタリの涙がいくらでも溢れてくる。
泣いていいのが無性に気持ち良かった。

夫は余計なことは言わずに、手を握っていてくれる。

癒されてる。
今までにないくらい、気持ちが落ち着く。

でも、母が帰ってきた気配で慌てつないでいた手を離す。

その夜、救急車で運ばれた。
突然、息が出来なくなった。


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