017-予兆。

去年の夏の馬鹿みたいな熱さを覚えている。
今年のように節電も叫ばれてなくて、至るところがキンキンに冷やされていた。

私は年々冷房に弱くなっている。
頭も痛いし、長い時間だと身体全体がだるくなってくる。
けど、職場も通勤電車も、そして家も目一杯冷やされていた。

私の母親は太っていて暑がりだ。

「お母さんて、どんな人?」
誰かに聞かれると、私はこう答えることにしている。
「同じクラスだったら、距離をおいた人」

母親のおかげで、帰りの遅いフルタイムの仕事もしてこられた。
元気で車も運転するし、電話一本で迎えにも来てくれる。
年金から生活費も出してもらって、経済的にも助かっている。
他に兄弟はいるけれど、娘や孫と暮らすのが一番良いだろうと、
父が亡くなったあとの十数年前から、私達はひとつ屋根の下にくらしている。

シュンに会うお盆開けを待ちながら、私はごく普通に仕事をこなしていた。

けど、何故だか最近、我が家が近づくにつれて、頭がモヤモヤする。
急に足どりが重たくなる。
一刻も早く帰りたいはずの、自分のウチなのに。

〈冷房で調子悪くなってるのかな〉

家に帰って言ってみる。
「温度ちょっと上げてくれない?」

けど、母は決まってこう言う。
「あんたは職場涼しいだろうけど、こっちは暑くてたまんないよ」
「寒けりゃ、なんか着な」

私は長袖のパーカーをはおり、厚いソックスをはく。
仕切りを取り払った我が家は、どの部屋も万遍なく冷やされている。
台所の流しの前が冷房から一番遠い。
そこで丸椅子に座って、グラスを傾けながらタバコを吸う。
家の中で、一番落ち着く場所。

母が夜更けまでつけているTVの音が聞こえるところでは、よく眠れない。
TVが消えても、うわごとやイビキのひどい母の近くでは眠れない。
夜中近くまで、夫が起きてベッドが開くのをじっと待つ。
早く身体を横たえたいけど、夫が起きる時間をただひたすら待つ。

壁にかけられた時計の針を、何回も何回も見る。

相変わらず頭のもやが晴れない。

待ちに待ったシュンと会う日。
正直、私は気持ちが固まっていなかった。
このままゴーか、Uターンか。
でも。

相変わらずシュンは快活で優しい。
「やぁ、元気にしてた?」
何事もなかったかのように、笑顔を見せてくれる。
とんでもないメールばかり送っていたことが、改めて恥ずかしくなる。

お祭りの一件やら、ホスト君との一夜やら、笑いも交えてすべて話した。
シュンは、一言も逃さぬかのように、聞きいってくれる。
けど、私は話しながらも落ち着かない。

〈今日はこのあとホテルに行くの?〉
〈シュンは、どういうつもりなの?〉
〈私は、どうしたいの?〉

彼に抱いてほしい気持ちは、完全におさまってはいなかった。
心のどこかで、シュンが「じゃ、行こうか」と言ってくれるのを待っていた。

けれど、彼は席を立たない。
この前のように会話が弾まない。

私はぼんやり夫のことを考えていた。
昨日の夜、玄関まで見送った私の頭をポンポンとなでてくれた。
恥ずかしそうに肩を抱き寄せてくれた。
角を曲がるとき、いつものように振り返ってくれた。
こんなときに限って、ひとつひとつを鮮明に思い出す。

やがて、シュンがレシートを手に立ち上がる。
〈じゃ、エッチは次に会ったときにね〉

聞いた瞬間、決着がついて力が抜けた。
「次」はなかったから。
私にとっては「今日」しかなかったから。

やっぱりシュンとはしちゃいけない。
セックスする相手はネットで簡単に探せるかもしれないけど、
「特別な友達」は一生ネットの中を泳いでみてもみつからない。
急速に頭が冷やされる。

家まで送ってもらう助手席で、シュンに言う。

「あのね、やっぱり次はなくってもいいや」

シュンはどう思ったろう?
曲がり角を間違えて、車は少し先まで走った。

「おまえが、ヘンなこと言い出すから、ウィンカー出し損ねたじゃないか」

シュンが笑って言う。

「ゴメン」

〈これで良かったんだ〉
〈これで間違ってなかったんだ〉

シュンと別れたあとの足どりは、やけに軽かった。
自分の決断は間違っていない、そう思っていた。

少なくともそう信じていた。
そのときは。


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